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場所

場所について

「場所」という言葉のもつ意味は「空間」や「位置」といった言葉に比べ理解するのが難しい。私なりに「場所」の意味を感覚的に一言で言えば、「デジャヴュ」となる。といっても、この表現は、地理学的なアプローチを専門とする人々にとっては違和感があるかもしれない。初めて訪れた場所になぜか昔懐かしさを感じるというのが「デジャヴュ」の本来の意味である。

あえてこのような矛盾する表現を持ち出したのには二つの主張がある。一つは、「空間」や「位置」というものが、ある程度の客観性を持ち得る概念であるのに対して、「場所」は身体的かつ主観的な体験に基づくものだということだ。もう一つは、自分の身体は自分に帰属しているという感覚に良く似た「ない感覚の感覚」という特徴が場所にもあるということである。

「場所」は刻々と変化しているにもかかわらず、我々の「場所」への認識は、その変化に気づかない状態へと陥ってしまう。良くも悪くも、である。一種の「なれ」であり、これは身体的なものの持っている特性とも言え、臭覚や味覚といった五感の持っている特性とも非常に良く似ている。

「なれ」と言うとなにか悪いもののように思えるが、身体が自分に帰属しているという感覚とも言うことが出来ないか。自分の右手を左手で触ったとき、左手は、「自分の」右手を触っていると認識できる。これは非常に当たり前のことであるが、もし、右手に麻酔を打ったり、あるいは極度にしびれてしまった場合、その感覚が生まれなくなってしまうということを経験したことはないか。

「自分の右手が自分の手であると左手が認識する」ことは、右手と左手の神経系とと大脳が絶妙に働き合い生まれる、複雑な感覚現象であるにも関わらず、通常はこの状態が感覚がない状態であり、この感覚現象が働かなくなってしまった状態、つまり、麻酔やしびれを起こした状態が、異常な状態としての感覚を引き起こす。これはあべこべではないか。

正座でのお茶会が終わり、さあ立とうとしたとき、足がしびれ感覚がないとしたらどうなるか。手で体を支え、よろめきながら足の状態を目視したしかめ、感覚のない足をかばおうと全神経が足に集中する。まるで我が全身はこの足のためにあるかのように。

「失って初めてわかる」という言葉がある。「ない感覚の感覚」「身体への帰属の感覚」は思い起こせば至る所にある。身体そのものだけではない。たとえば性、宗教や文化といったものも全般的に似た感覚を持っている。そして「場所」もそうなのだろう。

「デジャヴュ」とは「身体への帰属の感覚」を本来あり得ないはずの場所に対して感じる感覚と考えるならば、「失って初めてわかる」感覚と絶対値等価な逆方向のベクトルと考えることが出来る。このような「場所」に関する思考実験を通して私は、一つの視点にたどりついたように思う。「旅人」という視点である。

世に様々な旅人が居る。松尾芭蕉、風邪の又三郎、寅さん....。旅人は「ない感覚の感覚」を何らかの理由で脱せざるを得なかったか、あるいは自ら脱しようと考えているのか、そういった人物である。その意味で「場所」を考える上でのひつの指標となり得はしないか。旅人には、異常とか異邦人、あるいは障害者といわれ、排除の対象となる一方で、凝り固まった「ない感覚の感覚」を打破する可能性を秘めている。

2008年04月19日

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